Thursday, January 12

外国人教員の終身雇用

先週私の雇用が任期雇用から終身雇用に変わることに 決まったと知らされました。現在、常勤の外国人教員は全員(最近までは私1人だけでした)3年ごとに更新が必要な任期雇用です。一方で日本人の常勤の教員 は全員終身雇用で雇われています。なぜこの2層のシステムが存在するのかまた、なぜ他の誰もそれを理解したり気にしてないようなのか分かりませんでした。 私にとってはそれは戦時中からの名残のようでした。

2人の違う同僚にこの学校には政策に対して責任がある人はいないので、 それを問いたいなら政治家に言わなければならないだろうと言われました。同僚は私を思い止まらせたかったようでした。立法の権限がある人々の前でたどたど しい演説をする自分の姿が頭をよぎりました。しかしながらそれらの思い浮かべた場面がどれだけおかしくても、そのような不当な政策を正当化する証拠として 何があったのでしょうか。特に、外国人教員の生活に不安定さを取り入れることは県にとってどのように利点があるのかと尋ねたかったです。

自 分自身についても考えてみました。もし自分が日本にずっといることを望んだら?3年だけアパートを借りるべきなのだろうか?家を持つことをそんなにリスク を負うものとして考えなければならないのだろうか?もし契約が更新されなかった場合のためだけに、3年ごとに新しい恋人や妻を得る計画を立てるべきなのだ ろうか? 車を購入するより3年間借りるべきなのだろうか?要するに、なぜ人生が3年ごとに計画されるべきなのでしょうか? そうしなければならない人がいるのでしょうか?

そのような差別的な規則はアメリカでは明らかに違法となります。同僚たちは にとっては興味を引くことではなかったようですが、日本の多くの公立の短期大学それを廃止するを目の当たりにするは素晴らしいことです。そのことは私に とってはとても安心できることで、仕事において多くの不公平やいらだち、屈辱的なことを取り除いてくれ、祝いさえしたいことです。

それらの条件はどのようなものだったのか?あの状況から私は何を学んだのか?それが私が説明したいことです。

3 年ごとの契約更新では、私は学術活動のすべてのレポートを提出して文学科の他のメンバーや他専攻の教員たちに精読してもらうのも含め今の職に再応募し、私 がいない教授会で他の常勤の教員は私の再応募について話し合います。その数週間後、学長室で最も地位が執行部の職員たちが出席して行われる正式な儀式があ ります。そしてまるで誰も私に会ったことがないかのように振る舞います。次に職員全員が毎年受ける健康診断に加えて2回目の健康診断を受けなければいけま せん。これは130米ドル(日本円で1万円ちょっと)以上かかり、一度は同じ週に2度胸部のX線検査を受けなければいけませんでした。私はこれを2度行 い、終身雇用になる前の2年半でもう1回行わなければいけません。

しかしこれらは単なるいらだちです。最も悪いことは劣った職員のように扱われることでした。

私 が来日することを決めたとき、極端な人種的少数派として生活することはどんな感じか知りたいというのは好奇心の一部だったと思います。アメリカで人種的な 多数派で居続けることもできましたが、わたしはその選択をし、好ましくない扱いに直面するかもしれないことは分かっていました。しかし多数派の人たちは少 数派に対してしばしば「想像力のギャップ」のようなものがあるように感じます。彼らにとって少数派の経験がどのようなものか想像するのは不可能ではありま せんが困難です。それが理由で、少数派の問題に興味を持ったり少数派に共感する人は非常に少ないです。彼らはより大きなグループやほとんどのことにおいて 普通であることだけではなく、公平であるという概念に守られています。

同じように、来日前、単に日本人でないから劣った職員として扱われるのはどのような感じか完全には想像していませんでした。

私は面接の際に雇用契約について尋ねそれを喜んで受け入れました。それは当時私にとって最も良い条件でした。
し かしながら、最初の3年の契約の2年半の間に専門的な区別の環境について知らされる出来事がありました。まず、1人の上司は契約を更新するのにおいては特 に好ましいとは思えないと感じるようになりました。その上司は実際にはっきりと言葉にしなければいけないかのように契約更新する考えはあるのかどうか尋ね てきました。さらに悪いことに、同僚の1人は最初に話した上司がいつも私に個人的な仕事をさせていることにずっと嫉妬していて、新しい契約が手続きされる 数ヶ月前に、それが私の通常業務の一部として含まれるよう変更することを決めました。他の常勤の職員には契約に書かれている "追加の責任" はありません。私にそうする義務はありませんでしたが、単によく知らなかったので、その論文を校正する仕事をしました。しかし2人目の同僚は私の契約の更 新をそれを公式な義務にすることによって自分の興味のために役立て私の労力の使用を獲得する機会だとみなしたようです。専攻会議で私の面前で話し合われた この策謀の結果気づいたことが
あります。

1) 同僚の教員の契約を変えることは執行部によって違反だと考えられている(ビックリですよね?!) 2)1人目の同僚がずっと私の義務だと主張してきた仕事は実際は全く私の義務ではなかった。個人的な頼みだと考えられるべきだったのです。またなぜそのよ うな仕事をして感謝されなかったのか理解しました。そうすることは義務ではなく、頼みはそうあるものであるとしてとらえられていたのです。 (私は騙されかけていて、その横柄さが私が感謝されなかった理由だったのです!)

私はこのことから何を学んだのでしょう か?区別から来る差別について学んだのだと思います。区別を不公平にするのはそれが本質的に差別だということではありません。それは人々を不当にグループ に分けることは必要ではありません。むしろ、区別という行動は 他人を差別することを願う人が誰でも簡単に通り過ぎる開かれたドアのようなものです。それは差別的な振る舞いを暗示したり、偽装や規則厳守と差別的な振る 舞いをする人々への公平さを生みま
す。

これはあるグループが最初からより悪い条件をあたえられたり、扱いをされた時明らかですが、単なるグループの区別がされた時もそうであるのは事実だと思います。

雇 用条件で外国人と外国人ではない人を区別することは不公平であり、日本の全ての組織で廃止される必要があります。個人の都合のために行政の違いを操ろうと する人は常にいます。1954年のBrown v.Board of Educationというケースで米最高裁は人々が「区別されているけど平等」という考えを実際に黒人は最悪の扱いをされているという証拠に基づいて却下 する決定をしました。それは私がここで述べる点とは違います。私の考えでは、差別の証拠が見つかろうと見つからなかろうと、区別は差別の行動を可能にする ゆえ区別は差別と同じなのです。

私の同僚は誰もこのことに特に興味はないようでした。それについて実際の話し合いはありま せんでしたが、多数派の一員として、なぜ興味を持つでしょうか? 彼らはすでに面倒を見てもらっていて、私からすると恐らく彼らにとってシステム全体は不都合なことは少ないように見えているのだと思えます。私が知ってい る人のうち私が対等な関係で扱われることに異議を唱える理由があるのはほんの数人だけなのかもしれません。しかし、それらは公式には支持されない利己的な 理由です。この決定で彼らの私に対する制圧的な振る舞いが学校自身から暗黙に助長されることはなく、彼らは私を他の人に見せているのと同じ専門家としての 威厳を持った扱いをしなければなりません。

私は定年まで日本にいるか分かりませんが、それは関係ありません。ここで大切な のは公平さの1つであり、私についてだけではありません。他の外国人についてでもあり、社会としての日本についてもです。要するに、日本で働く外国人や日 本自身の利益のためであり、 外国人への任期雇用の制度が廃止されるのは素晴らしいことでしょう。私はその知らせを聞いて嬉しく、自分の同僚や初めてこの過程を始めた日本中の執行部を 賞賛します。

もちろん日本人と外国人のどちらも契約という位置付けは増えているので、全国的な流れは別の方向で進んでいます。ですがこれは私がお知らせしたい明るい瞬間です。